身体との遭遇に導かれて—ポートレイトの論理
1983年、84年、85年と、私は「Unes et Autres」のシリーズをなす16歳から18歳の若い女性たちや、「Autres portraits de jeunes gens」 のポートレイトに加えられる若者たちの撮影を行った。
そのころ私が目標にしていたのはアウグスト・ザンダーの写真である。彼は私が師と仰ぐ2人の写真家のうちの1人だ。それから長い年月を経た今もなお、アウグスト・ザンダーの作品に対する私の強い関心は変わらない。私もまた、彼の作品をノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)と結びつけて考えている人間の1人である。
私はその後、タイトルの綴りを置き換え(UnesはNuesとなった)、また撮影の仕組みも180度変更して、ネイキッド・ポートレイトの制作を開始した(モデルは3行広告で、あるいは第三者を介して募集し、撮影は彼女たちの自宅で行われた。撮影の順序については、希望者が現れた順番に従い、それ以外の基準は一切設けなかった)。これらは、最初のポートレイトのシリーズと〈反響(エコー)〉する関係にある。このころから次第に私は、私を支えてくれるもう1人の大きな存在、第2の師ともいうべき写真家ダイアン・アーバスのことが強く気にかかるようになった。
こうして(1986年以降)始まったシリーズが、「Nues」、「Nues, autres」、「Autres portraits nus」、「Du Portrait」(以上は主にアメリカ合衆国で制作された)、「Madame L.」、「Avec ou sans écran」である。
さらにその後近年日本で開始したシリーズが、「Japanese album」、「Sumo portraits」、「Bubu Album」、
「Diamonds are forever」などである。
ちなみに、これらのシリーズのうちのいくつかは現在もなお進行中のものである。
かなり早い段階で気づいたことだが、ポートレイトおよびネイキッド・ポートレイトが求める厳しい作業を通じて、私はアウグスト・ザンダーとダイアン・アーバスという2人の師の、そのまさに中間の地点へと導かれていった。正面性はもちろん、距離に対してもきわめて細かな神経を配ってきたのはそのためである。それは私とモデルとを隔てる距離であり、また私とモデルとを結びつける距離でもある。距離の厚みとでもいえるだろう。モデルの身体と私の身体とのあいだに存在する距離。私は、社会問題を扱うルポルタージュの写真家でもなければ、私生活と公的生活がいささか入り交じった、いささか乱れた境遇をつぶさに思い入れたっぷりに描き出すような写真家でもない(現在そうした自己演出が流行中だが)。私の私生活とアーティストとしての仕事とのあいだの関係は、やがて自伝で扱うことになるであろう。
こうして、さまざまなシリーズが「資料体(corpus)」として、つまり、作品という身体=作品集(corps d’œuvre) として作り上げられ続けており、それらのシリーズはしばしば相互に、引用の働きによって応答しあっている。なお、この短文のタイトルは、ジャン=マリー・シェフェールが1994年5月『アール・プレス』誌に発表したテクストにおいて使った小見出しから借用したものである〔日本語タイトルは原タイトルの含意を明確にするため若干の変更を加えた〕。
ジャン・ロー 2008年春
(訳:青山勝)